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「少女たちの日々へ」青山静男写真集に寄せて
青山恵一
〜少女たちの日々へ 1巻解説〜

 曾て(かつて)子供達が公園や路上で遊ぶ姿は、何処にでも見られるありふれた風景だった。
 昭和50年代半ば頃、人の匂いがなつかしい大阪の町々を訪ねて写真を撮り始めたシズオは、そんな子供達の場面にも足を停めることが多かった。
 「にいちゃん、何してんの?」。その頃既に30歳を過ぎていたが、後々までもロック少年を自認するシズオの姿を見かけて声をかけてくるのは、大抵子供達の方からだった。
はきくたびれたジーンズに長髪、丸い眼鏡に髭(ひげ)を蓄え、何台ものカメラを下げた風変わりな客人を迎えて、子供達の遊びの輪は一層にぎやかなものになった。シズオもすぐには写真を撮ろうともせず、その輪に馴染んだ。
 たっぷり遊んで夕暮れが迫ると当然のことのように子供達はシズオに、次に会う日を約束させた。シズオもまたその約束を守って、必ず出かけて行った。
シズオに会うと子供達は自然にカメラの前で戯れる。幼いポーズをとりシャッターをせがむ。その時がくるまでシズオも待った。それはいつも、信頼と友情に溢 れた記念写真から始まる撮影会だった。
 子供達、ことにシズオの撮った少女の写真には時折、背徳(はいとく)の匂いがする。親にも友達にも見せたことのない、本人さへも気づかぬ背徳の匂いである。しかし無論、それはシズオが少女に強制したものではない。彼女らと過ごす時間の流れの中のごく自然な表情や姿態(したい)の一部に過ぎないことに気づく。写真家としてのシズオの視線がそれを見逃さなかっただけのことであり、高校野球のチアガールのスカートの中を階段の下から望遠レンズで盗み撮りするものでもない。シズオの写真に登場する子供達は、いつもカメラに向けて真正面に微笑んでいる。
 明るい表の写真界で話題になることはなかったが、そんなシズオの「少女写真」に注目する人も現れた。当時流行し始めた投稿雑誌の誌面に度々登場し、「静かなる時」という一冊の写真集も出版された。束の間、原稿料で好きな小説やロックのレコードをたっぷり買えた。
その頃シズオは、早朝から昼までを魚市場のアルバイト。午後から撮影に出かけ、帰宅してから深夜までをフィルムの現像作業にあてるという生活を続けていた。ある日、出会うと顔色が悪く「時々、赤い小便が出る」と云った。37歳の年の暮れのことで、膀胱癌だった。
 第1回目の手術で余命3ヶ月、病院では為す術(すべ)がないと宣告され、絶望の間もなく粉ミルクによる民間の断食道場へ入所した。そこは偶然にもシズオが愛した大阪鶴橋界隈にあった。
 シズオも体調のよい日にはカメラを下げて近所を歩いた。その後、奇跡的に2年間を生き延び再手術を受けた。人工膀胱(ぼうこう)の不便さはあったが、見違える程に回復した。3年後には肺の手術も受けたが、ここでも奇跡はシズオに味方をした。
 しかしその間に世の中も変わった。人の匂いがなつかしい大阪の町々も次々と消え、受験戦争に明け暮れる子供達が路上で遊ぶ姿も見られなくなった。そこへ世間を震撼(しんかん)させる幼女連続殺人・Mの事件が起きた。もはや、見知らぬ子供達にレンズを向けることさへ許されない時代となった。
シズオも、もう子供達を撮ろうとはしなかった。少しづつくずれていく体力と癌再発の怯(おび)えと戦いながら、ロック音楽と残された多数のフィルムの焼き付け作業に没頭した。暗室の中でだけ、いつでも昔のように子供達と遊ぶことが出来た。
その後、以前のような体力に戻ることはなかったが体調は安定した。そこで、小さな人形ギャラリーを営む私の店に手伝いにくることになった。といっても、夕方になるとカウンターで薄い水割を飲みながら若い客と軽口をたたいて終わるような一日だったが、シズオの後年の人生で一番穏やかな日々だったかもしれな い。
もう子供達の写真は撮らなくなったが、私の店の仕事として人形の撮影を幾度か任せた。「異端の人形たち」という企画で、大正時代の生き人形やマネキンに人工着色を施した写真は評判を得て人形雑誌にも掲載された。店のギャラリーで、これまでの作品から「うれしい春」「光がきれいな日」「夏休み日記」のタイト ルで写真展も開催した。
 シズオの体調のよい日が続いたある時、チベットのラサへ旅立つ私の妻の見送りも兼ねて、三人で数日間の中国旅行をしないかともちかけた。帰ったらまた写真展をすればいい。タイトルは「上海気分」。初めてのパスポートまでとってシズオは上機嫌だったが、直前になって微熱が続き中止となった。その後、熱は一週 間で収まった。シズオにとっても楽しみにしていた旅だっただけに、「上海気分」の中止は何としても惜しかった。
 そこで上海には行けなかったが、無理は承知でこれまでの作品からいかにも上海らしい風景の写真を探し出した。ダメ押しに、上海と名のつく中華料理店や居酒屋を撮影することにした。その頃の京都には、何故か上海と名の付く店が数軒あったのだ。シズオも久し振りに意気揚々と町へ撮影に出かけた。パスポートは不 要になったが文字通りの「上海気分」。これが遺作となるのだが、写真展も好評だった。
 数カ月後、癌はもう全身に拡がっていた。呼吸困難の苦しさからシズオが一時でも逃れられるよう、私は主治医に殆ど麻薬に近い痛み止めの薬をお願いした。途端にシズオの顔に紅みがさし、雄弁になった。きれいな花に囲まれているのだと云う。もう一冊写真集を出したいのだとも云った。タイトルは「ひびのあわ、ひびのあわ」と答えて昏睡した。もう奇跡は起こらなかった。
 それはボリスヴィアンの小説のタイトルであり、シズオが愛したロックバンドの一曲でもあったらしい。誰のどんな曲だったのか、聞きそびれてしまったことが今となっては悔やまれる。
(「日々の泡」青山静男遺作写真展に寄せて 原文平成8年5月、16年改稿)
青山静男 昭和24年3月19日 京都市に生まれる
平成7年3月13日没 享年45歳
青山恵一 実兄 昔人形青山店主


「少女たちの日々へ」青山静男写真集に寄せて
青山恵一
〜少女たちの日々へ 2巻解説〜

 小さな人形ギャラリーを営む私の店のカウンターの上壁に、常時20枚程のシズオの写真を展示している。ギャラリーの創作人形を見に来た若者が、時々見つめている。実家にも大量のシズオの写真が遺(のこ)されている。家族も私も毎日のように目にしてきたので、シズオの写真はリアルタイムで私達と共に生き続けてきた、と思いこんでいた。
ところが昨年のある日、ピンが外れて一枚の写真が床に落ちた。閉店前の慌ただしい時間だったので拾っただけだったが翌日見るともう一枚、落ちていた。私のピンの押さえ方が弱かったのか、他の写真のピンも今にも外れそうだった。全ての写真のピンを外して、もう一度貼り直すことにした。その時、シズオの写真がこれまでと違って見えることに初めて気がついた。
もう私達とリアルタイムでは生きていないのだった。子供達の笑顔も服装も風景も、現実にはもう見られないものだった。しかし記憶の彼方へ葬り去る程の過去にもなっていない。その微妙なズレが、まるで既視感(きしかん)のような不思議な錯覚を与えたのだった。それは私自身もあの頃の記憶を過去のこととして、まだ更新出来ないでいるからでもあった。
 これまで生きてきて、ただの一度もその時代に人々が満足した様子を見たことがない。私も含めいつでも人々は、その時代の政治を経済を世相を批判し嘆いて生きてきた。しかしシズオが子供達の写真を撮り続けていた昭和50〜60年代。子供達の笑顔、なつかしい街並、やわらかな風景を私が過去のこととして更新出来ないのは、いつまでもあの時代と繋(つな)がっていたいという願いが、心のどこかにあるからなのかもしれない。
 終焉(しゅうえん)間近だったとはいえ、誰もが日本の永遠の高度経済成長を信じて疑わぬ日々だった。親も自信をもって子供に「希望」を教えた。そして子供達もそれに従った。しかし既に、子供達も大人の嘘を見抜くしたたかさを持ち合わせていた時代でもあった。本人も気づかぬ内に背徳の匂いを漂わせることが出来るのだから、それも子供達にとっては当然のことであった。
 かくれんぼう遊びでもしていたようにシズオも子供達も、もういない。
現在でも過去でもないシズオの写真に見入って知るのは、宙ぶらりんの私自身である。そんな時にはシズオの写真に、宙ぶらりんの自分自身を託してみる。そして託した自分を眺めてみる。シズオの写真の子供達の多くが微笑んだり、はにかんだり、戸惑ったりしている。70%の表情である。100%の表情で大笑いしている子供は殆どいない。表情に余白がある。だから託せる。そして託した写真の中で、私も子供達と少しだけ遊んだ気分になる。
 シズオは子供達も、病気も、死さへも、受け入れた。運命のまま何事も受け入れて生き、果てた。だから託せる。人は、受け入いれる者にしか託しはしない。そして受け入れた運命に翻弄(ほんろう)されながらも、シズオはその時の自分に許されたことをただひたすら重ね続けた。結局、運命に負けていなかった。しかし野心というような言葉とは、全く無縁な生き方をした弟だった。
 シズオが没して9年が過ぎた。シズオの写真集が現在や過去という時間軸に属さないこの時機に刊行されることを、本当に喜んでいる。
 今回の出版にあたり御尽力頂いたほうとうひろし様、天野昌直様に、厚く御礼申しあげます。

青山静男 昭和24年3月19日 京都市に生まれる
平成7年3月13日没 享年45歳
青山恵一 実兄 昔人形青山店主